(充分です、主よ、充分です)
【はじめに】
聖フランシスコ・ザビエルは、「祈りの人」でした。イエズス会士トルセリーノ著『ザビエル伝』(史上初のザビエルの伝記)にあるインドのゴアで目撃されたあるエピソード。ザビエルは早朝に教会の庭で祈っている際に、瞑想の中で神の愛に触れて意識を完全に失いました。その後、彼が我に返ると、熱く腫れ上がった胸から上着を開いて、何度も次の言葉を、かなり強い口調で繰り返したとのことです。「充分です、主よ、充分です(Satis est Domine, Satis est.)」と。聖フランシスコ・ザビエルを表すフレーズとなりました。
【青少年期~イエズス会創立】
聖フランシスコ・ザビエルは1506年4月7日ナバラ王国のザビエル城で生まれました。ナバラ王国は、現在のスペインのパンプローナを中心とする北東部(バスク地方)を領土としていた国で、ザビエルの父はナバラ王の信頼の厚い宰相を務めていました。フランシスコ・ザビエルはバスク人だったのです。
1525年19歳で名門パリ大学に留学。聖バルバラ学院でリベラル・アーツを修め、哲学を学んでいました。そこには同郷(バスク)で18歳年上のイグナチオ・ロヨラも留学生として在籍していました。二人は交流し、ザビエルはロヨラから強い影響を受け、哲学課程は最終過程に入っていましたが、聖職者を志すようになりました。強烈なインフルエンサーのロヨラから影響を受けた青年たちが集まり、プロテスタント異端と戦いカトリック教会を護るために生涯を神にささげる誓いを、モンマルトルの教会で立てました。これが有名な「モンマルトルの誓い」で、イエズス会の創立です。
その後、教皇パウルス3世の許可を得て、ザビエルやロヨラは順次司祭に叙階されました。イエズス会は創立当初より世界宣教をめざしていたので、ポルトガル王ジョアン3世の依頼でイエズス会は、当時ポルトガル領だったインドのゴアに会員を派遣することになりました。当初派遣されることになっていた会員が病で倒れたので、急遽ピンチヒッターとしてザビエルに白羽の矢が立ち、ザビエルは即座に承諾し1541年にリスボンを発ち、1542年にゴアに着きました。この時ザビエル35歳。インド各地で宣教し、1547年にマラッカで鹿児島出身の武士ヤジローに出会い、日本行きを勧められます。
【ザビエル日本宣教へ出発~日本での宣教】
1548年にゴアで洗礼を受けたばかりのヤジロー(日本人初のカトリック信徒)や他のイエズス会司祭と共に日本に向けて出発し、ヤジローの案内で鹿児島県坊津に上陸。その後1549年8月15日に許可を得て現在の鹿児島市内に到着。その日は「聖母被昇天の祝日」であったので、ザビエルは日本を聖母マリアに捧げました。薩摩の守護大名島津隆久の許可を得て宣教を開始。1550年8月に薩摩を去り、肥前の平戸、同年11月には周防の国山口に入り、無許可で宣教を開始するが、守護大名大内義孝に謁見。ボーイズラブ愛好家の義隆にボーイズラブは罪であると説き、義隆は激怒。ザビエル一行は山口を追放され、海路で堺に上陸。そこで豪商・日比屋了珪の知遇を得ました。日比屋了珪の近所の住人で知人の茶道の宗匠千利休とも知り合いました。日比屋は後に家族ともども洗礼を受け、熱心なキリシタンとなりました。千利休は洗礼こそ受けませんでしたが、熱烈なキリスト教シンパで、「利休七哲」と呼ばれる利休の高弟には、高山右近をはじめキリシタン大名が多くいました。ミサの所作(トリエント典礼)と茶道の所作の類似性は多くが指摘するところです。
了珪の口利きで、ザビエルは念願の京都到着。日本全国での宣教許可を得るために「日本国王」宛のインド総督とゴア大司教の親書を携え、後奈良天皇と将軍足利義輝との謁見を願いましたが、贈り物がなかったので実現せず。また応仁の乱で京都の街は荒れ果ててもいたので、いったん平戸に戻り、仕切り直し。親書の他、望遠鏡、洋琴、置時計、ギヤマンの水差し、鏡、眼鏡、書籍、絵画、小銃などの献上品を調えました。日本では外見が重視されることを知ったザビエルは、一行は美服を装い、再度山口の大内義隆に謁見しました。珍しい献上品に喜んだ義隆は信仰の自由を認め、領国内の廃寺の1つをザビエル一行の教会兼住居として与えてくれました。ここを拠点にザビエルは1日2回の説教をし、2か月の宣教で約500人の信徒を獲得したとされています。その中に日本人初のイエズス会修道士ロレンソ了斎となる盲目の琵琶法師も含まれていたのです。
ロレンソ了斎は、高山飛騨守友照とその息子高山右近を洗礼に導くなど、後に日本宣教に八面六臂の活躍をしました。
【ザビエル帰天とその後】
ザビエルは豊後(大分県)で布教した後、いったんインドに戻りました。日本文化に大きな影響を与えている中国の宣教が、日本宣教には欠かせないと考えたザビエルは、中国(当時は明王朝)への入境を目指し1552年9月に上川島に上陸しますが、病を得て果たせないまま12月3日に帰天。1541年に家族や親しい友人たちと別れて宣教に旅立って以来、一度も故郷に戻ることなく、異郷で46年の生涯を閉じました。ザビエルは、もともと司祭を希望していたわけでもなくリベラル・アーツ(一般教養)を学んでいただけでしたが、神の必要で人生を変えられ、司祭になり、当時としては世界の果てにまで、神の教え、いつくしみを伝える神の道具として用いられ、立派に役目を果たした生涯でした。
ザビエルの遺骸は石灰を詰めて納棺され海岸に埋葬されました。1553年2月にマラッカに移送され、その後ゴアへ運ばれ、棺から出され一般に拝観が許されました。この時、参観者の婦人が遺骸の右足の指2本を噛み切って逃走しました。噛み切られた指は、婦人の死後、聖堂に返され、そのうちの1本はハビエル城に移されました。遺骸はインドのゴアにあるボム・ジェム教会に安置されています。右腕の肘から指先までは、1614年イエズス会総長の命令で切断されローマに送られ、ローマ・ジェズ教会に安置されています(聖腕)。この切断の時に、本人の死後50年以上経過しているにもかかわらず、鮮血がほとばしったのです。これをもってザビエルの「奇跡」と認定されました。なお、右腕の肘から肩まではマカオに、耳、毛はリスボンに、歯はポルトに、胸骨の一部は東京にと、分散され保存されています。
姫路教会では、1949年6月26日に主任神父のスパー神父様の司式で「聖腕」を迎えて、グレゴリオ聖歌の歌声が響く中、荘厳に崇敬ミサが捧げられました。
姫路教会は戦後1949年8月15日「ザビエル来日400年」を記念して新しい聖堂(現在の「ザビエル館」)を、聖フランシスコ・ザビエルに奉献し、保護の聖人と定めました。
【列福・列聖】
ザビエルは1619年10月25日に教皇パウルス5世によって列福され、1622年3月12日に教皇グレゴリウ<ス15世によって盟友イグナチオ・ロヨラと共に列聖されました。■
ある日、ザビエルはインドのゴアからマラッカへ到着した。この先の丘にあるセントポール教会へ向かうため沖合に停泊している大型帆船から艀(はしけ)に乗り換え船着き場に向かって船頭が艀を漕いでいた。
運悪く、海面すれすれに姿を隠した岩礁に乗り上げ、ザビエルの乗った小舟の船底にポッカリ穴が開いてしまい沈没は必至。大変なことになった。さあ、どうしよう・・・ その時、一匹のカニが船底の穴に自分の甲羅(こうら)を押し当て、浸水するのを防いだのだ。おかげでザビエルと従者たちは船着き場へ無事上陸できた。しかし、船底を守ったカニは絶命してしまった。 カニは自分の命と引き替えにザビエルたちを守ったのだ。ザビエルはこのカニの偉業を讃え、冥福を祈り十字を捧げた。
以降、この近海で漁師の網にかかるカニの甲羅には十字の模様が刻まれるようになった。人々は祈りを捧げたザビエルの奇蹟と崇め、カニに「ザビエル蟹」と名付けた。マラッカで十字の甲羅のカニは今でも水揚げされている。そして船底に穴を開けた岩礁には十字架が立てられ、付近を航行する船舶に注意を促し航路の安全を護ったとのこと。その十字架が史跡として今でもポツンと公園の中に立っているのだ。■
ザビエルはキリスト教を布教するため船で旅をしていたが、暴風雨に遭い船は転覆寸前になってしまう。
そこでザビエルが、嵐が治まる事を祈りながら大切な十字架を海に投じると、次第に嵐が治まり無事目的地にたどり着くことができた。 その後、ミサを捧げていると、カニがその十字架をザビエルのもとへ拾い届けてくれた。■